海藤抱壺

海藤抱壺(かいどう ほうこ)

本名・海藤寛
1901年(明治35年)5月13日 – 1940年(昭和15年)9月18日

句集に「三羽の鶴」がある。
種田山頭火が病床を見舞うなど交流があり、山頭火が詠んだ以下の句が残されている。
「風鈴鳴ればはるかなるかな抱壺のすがた」
「抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく」

代表句

・日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴
・死の近し青木の実は赤ききわみ
・わが心のやうな林檎があるナイフのそば

略歴

宮城県仙台市にて出生。
県立仙台二中(現在の仙台二高)に入学するが、肺結核を患い中途で退学する。
病気療養のため自宅で療養生活を送ることになる。
この頃より聖書を読み、キリスト教に傾倒する。
その後、荻原井泉水の「層雲」に加わる。
病状悪化し、39歳にて逝去する。
抱壺はクリスチャンであったが、家は浄土宗だったため、葬儀は仏式だったという。
海藤家は弟であった日出男氏が継いだ。
海藤家の墓は西多摩霊園にある。